2025年 10月 06日
2010年再掲/惻隠(そくいん)の情とは。。。
人間、昼間からねていますと、
脳は考えることを始めます。
生きている限り、何かについて思い、
考えを深めていくものです。
普段、忙しいと、考えても解決しないような問題は、
「お蔵入り」なのですが、
時間があると、その「お蔵入り」していたものを、
引っ張り出してくるようです。
まほは何を引っ張ってきたかと言いますと、
忘れたわけではないけれど、
気にせず行こうとしていた言葉です。
「なに、いい人ぶって」
「あまり美化しすぎませんように」
「あなたのブログを読んで余計落ち込んだ」
・・・などなど。
まあ、どんなものでも万人受けはしないですし、
わたしもすべての人に好かれようとも
思っていません。
共感できる人には、
読者さんであってほしいですが、
このブログを読んで落ち込む人は、
却って楽しい日々を送れないでしょう。
読むも読まないも、あなた様のご判断。
いっくらタダのオマケでも、
気に入らないものはもらわんでしょう。
・・・とこう、思うのですが、
ちょっと考えてみたんですよ。
そうおっしゃる方は、
たいがい「同情」を嫌います。
「同情」されるというのは弱いからで、
弱いことはだめなことと思いこんでいる方に
多いです。
まほ自身は
「同情」でかわいそうにという想いが
理解しあうための出発点だと思っていますし、
(真のやさしさって)
弱いことはだめではないし、
むしろ、弱くてもいいと、想っているんです。
少しだけ、「同情」を嫌う人の
心理に気づきました。
かわいそうにという感情は
多くの人が持ちます。
けれど、かわいそうにと思った人が、
みんな手を差し伸べてくれるとは限りません。
先日、ドラマにでてきた、
「惻隠(そくいん)の情」というのは、
同情とは違い、見捨てることができないものだと、
ありました。
これだぁと思いましたね。
わたしは家族や周囲の人から、
「惻隠の情」をもらったんです。
見捨てられない・ほおっておけないという
無償の愛を。
だから、その愛に気づいた私は、
いただいた多くの愛を返していきたいんだと。
同情だけで、惻隠の情に変わらなかった
経験の人には、愛というものがどんなに
ありがたいものか、ご存じないかもしれません。
だったら、愛を与える人が多くいたら、
いままで愛を知らなかった人が、
ありがたい・うれしい気持ちを
体験できるんじゃないですか?
そうして、愛に気づいた人が、
また別の人に贈っていけば
きっと素敵な世の中になりますよ。
ものごとを正しく知らないことが、
わたしたちをしあわせから
遠ざけている気がいたします。

「あの人が行くなら私も行く。あの人が行くなら私は行かない」
という言葉があります。わたしはいつも自問します。
どちらもある感情です。。。
心無い言葉を吐く人達は、自分というサングラスをはめて見ているようです。私もどんなに心痛めたか。
どうにもならないときは遠去かりましょうね。いつも光の方へ向かって進んでくださいね。
★るるぶるさんへ
お読みくださってありがとうございます。
いやだった思いがしみの様に浮き出てきますね。
もう忘れられない言葉。
だからこそ、人さまにたとえ思ったとしても言わずに呑み込む自分ができたと思っています。
幸せの定義は人それぞれですよね。私は人さまが喜んでくださったら、うれしいです。
自分のつらさ薄まります。
そう言う意味ではけっこう周囲の反応気にするものです。
不機嫌そうな顔されると「なんか悪いことした?」って自己嫌悪で楽しくなかったり。
るるぶるさんも非常に耐えてこられて、他人の痛みを想像できる方。
●心無い言葉を吐く人達は、自分というサングラスをはめて見ているようです。私もどんなに心痛めたか。
●どうにもならないときは遠去かりましょうね。いつも光の方へ向かって進んでくださいね。
ありがとうございます。いつもこのお言葉を心に、
私も明るい方に、みなさんと一緒に進ませていただきますね。イエーイ!


